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摘田(つみた)ってなんじゃらほい

摘田(つみた)とは、田植えによらないで、
直接田に種もみをまく方法で稲作が行われる田んぼのことです。

尾崎政二さん

現在は、苗代で育てた苗を植える「植田(うえだ)」が主流ですが、かつては泥深い田んぼが多く、そのような田んぼでは、種もみを指で摘まんで直接たんぼにまいていました。そのような稲作の方法を田摘み(たづみ)といい、田摘みで耕作される田んぼを摘田(つみた)といいます。

尾崎政二さんからの聞き書き=エコシティ志木通 信26号:福村久=写真・文=より再構成(以下同)

 

泥深い田に沈まないように、田んぼに沈めた止まり木をわたりながら、ずり棒を使って種もみをまく位置のめやすの筋をつけます。
止まり木の歩幅は2歩分。踏み出した片足が泥にはまらない内に片足を踏み出すという絶妙の三角バランスの連続。
摘田の種まき。
摘縄で抱えた摘かごから、灰やたい肥でまぶした種もみを摘み出し、ずり棒でつけた筋に従ってまきます。
田下駄での農作業のようす。
稲の根が張れば田下駄での移動ができるようになります。腰を落とし、がに股で歩くのが田下駄をはきこなすコツ。

摘田の農具

手前中央が摘かご(桶)と摘縄。ずり棒を挟んで、左側が畑作用の筋つけ(大型:かぶら用、小型:人参用)。
右手右側が木製の「えぶり」(摘田の泥の粒子を均一にならす代かき仕上げの用具)、左側は鉄の刃のもの。奥手が止まり木。

田舟と田下駄、鍬。 左側は次の摘田のために残った根株を掘り起こすための鍬。刃先が三味線のばち型の「ばち万能」(刃先が無くなるまで使い込んだもの!)
 
●ドブッタ、フカッタ、カマッタ
 湿田も大別すると泥深い田と、水深い田に分類されます。腰まで浸かってしまうのが普通のドブッタ(土腐田)で、胸まで浸かる深い田や、足が底につかない田をフカッタ(深田)とか「底なし田んぼ」と呼びます。カマッタ(釜田)とは絶えず水の噴き出ている田んぼをいいます。
 ドブッタの農作業は田んぼに沈めたトマリギ(止り木)と呼ぶ丸太の上を伝わったり、飛び移って行われます。場所によっては縦方向にも入れてあります。これを体で覚えるには年期が必要で、間違っては、はまりながら覚えるのだそうです。種もみを入れる「摘みかご」が桶なのも、とっさの時の浮きになるからだそうです。
   
●埼玉県の摘田
 埼玉県の摘田の分布の中心は大宮台地周辺で、志木市が含まれる旧足立郡の大部分と、南埼玉の蓮田市や岩槻市の一部に集中していました。しかし摘田地区に含まれていても、野火止用水のような用水路が利用できる宗岡地区では、早い時期から植田に移行していました。
 昭和31年の調査では、残された摘田の大部分を北足立郡が占めていたというから、私たちの郷土は日本有数の摘田地区だったのです。摘田面積は昭和35年には5分の1くらいまでに減少し、昭和40年代後半にはほとんど消減しました。
 尾崎家の田十通り(たんじゅうどおり)は最後まで残った摘田の一つでした。それを裏付ける証拠が志木市郷土資料館にある木桶の摘かご(種もみを入れる容器)に見られます。桶を脇の下に抱え込むための布で編んだ肩ひも(摘縄・つみなわ)の補修に、ナイロン製のとらロープが使われています。
   
●田十通りはどこにあったか

 尾崎家の田十通りとは、いったいどこだったと思われますか。何と、西原の台地沿いの、今の志木二小と二中の南側の福住住宅街あたりだったのです。
 幅10間(約18.2m)、長さが60間あったことから田十通りと呼ばれました。このあたりは、台地上は野火止用水の分流が扇状に広がり、今は見る影もありませんが台地の裾の斜面林ももよく保水して、低地には台地からの浸透水がわき水になって吹き出し、小さな川になり、それが柳瀬川の自然堤防に阻まれ、わき水に加え、逃げ場のない水が水田に常に溜まることになったのです。
 田十通りは典型的なフカッタで、今の志木ニュータウン内の21階建てのタワーがあるところの道路側は、こんこんと水の噴き出しているカマッタでした。


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