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柳瀬川の自然エリアのお宝

 
志木の崖線

天田 眞
(2006年12月10日 河童のつづら館長 NPO法人エコシティ志木代表理事)

せど湧水

↑西原斜面林のせど湧水

 台地と低地からなる志木地区

 現在の志木市は、昭和30年に志木町と宗岡村が合併し足立町となったことが元になっています。宗岡地区は全域が荒川低地にあるのに対し、志木地区は武蔵野台地の東北の縁の新河岸川と柳瀬川との合流点に位 置し、台地と柳瀬川や谷津沿いの低地からなっています。現在は全域が都市化していますが、昔は台地にだけ集落があり低地は水田等であり集落はありませんでした。台地と低地の境は比高6〜10m程度の崖線になっています。

 武蔵野台地とは

 武蔵野台地とは、青梅を基点とし東に東京湾まで続く扇状地で、青梅西方の関東山地から昔の多摩川によって押し出された砂礫が海底に積もり後に隆起したもので、上層部は火山灰からなる関東ローム層に覆われています。台地の北東側は川越から東京中心部に続く崖線となり荒川低地に面 しています。
 柳瀬川は、多摩川が今の流れに落ち着く前の古多摩川の名残で、ニュータウンから栄橋まで続く川沿いの低地は、この古多摩川が台地を侵食してできたものです。
 縄文時代前期の温暖な時代には、川越付近までの荒川低地は海となっていて、志木は柳瀬川の河口にあたりました。

 崖線沿いから始まる歴史

 台地の縁は大変住みやすい場所です。洪水の心配がない台地上に住み、崖を降りれば湧き水を得られ、台地で畑、低地で水田をつくり、魚介類も採ることができます。
 志木の台地では崖線に沿った地域で縄文時代以降の住居跡や貝塚等の遺跡が多数発掘されています。
 中世には、柳瀬川を望む崖線を背にした志木三小のあたりを中心に、柏の城と呼ばれている居館があり、その周辺に現在の志木につながる舘村が生まれました。

 崖線に残る斜面 林

 かつては緑に覆われていた崖線も都市化が進むと共に開発され住宅地に姿を変えています。僅かに残された斜面 林は、緑の少ない志木では大変貴重な樹林です。
  代表的な斜面林はこもれびのこみち(敷島神社裏)と西原区画整理地区内のものですが、長らく手入れされていない場所は荒れてきており、区画整理工事では一部が伐採されてしまいました。

 崖線下の湧水

 かつては崖線の下からは水が染み出し、場所によっては豊かな湧水となっていました。現在は開発に伴い埋められたり、地下水位 が下がったりして殆ど無くなってしまい、昔からずっと湧き続けているのは「こもれびのこみち」だけとなっています。
 西原斜面林の下にも豊かな湧水があり崖線上の家々の生活用水として使われていました。上水道が敷設されてからは使われなくなり一旦は埋められてしまいましたが、8年前に市民グループにより掘り出され復活(冬から春にかけてはたまり水状態)しています。


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