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柳瀬川の自然エリアのお宝

 

河童ものがたり


毛利 将範
(志木まるごと博物館 河童のつづら 担当)2008年6月


ハナウド
↑ 柳瀬川の河童さま(内田栄信さん作)

 柳瀬川の河童伝説

 柳瀬川には2つの河童伝説が残っている。1つは所沢市久米の持明院に伝わるもので、和尚に差し出した「河童の詫び証文」。もう1つは志木市柏町の宝幢寺(ほうどうじ)にかかわるもので、河童が和尚に助けられた話。じつは「志木まるごと博物館 河童のつづら」の名誉館長は、このときの河童、もしくはその子孫を想定している。
 宝幢寺の話は文化6年(1809)刊行の『寓意草(ぐういそう)』に収録されたあと、大正3年(1914)に日本民俗学の創始者柳田国男によって『山島民譚集』に紹介され、全国的にも有名になった。

 宝幢寺の和尚に助けられた河童

 『しきふるさと史話』(神山健吉氏記述)によると、和尚に助けられた河童伝説とは、以下のようなものである。
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 むかし、柳瀬川にすむ河童が馬や人間をおそうことがよくあった。
 あるとき、15、6歳になる寺の小僧が馬を水あびさせようと、馬にまたがって川の中に乗り入れた。ところが、馬が急におどろいて川から飛び出したため、小僧は川の近くの田んぼの中にふり落とされてしまった。
 小僧は田んぼからはい上がると、馬のあとを追いかけて、寺の馬小屋に着くと、馬が異常に興奮しており、不振に思って馬のまわりを見ると、10歳くらいの子どものような格好をしたものがいた。
 小僧の手にからんできたのを隅の方に連れて行って捕まえてみると、それは河童だった。
 馬にかなり踏まれて弱っている河童を馬小屋の外に引きずり出したところ、近所の人たちも集まってきて、「柳瀬川で悪さをしているのはこいつだろう」「焼き殺せ」といって、大勢で積み上げた薪に火をつけはじめた。
 河童は自分が焼き殺されることを知って涙を流し、手をあわせてまわりの人たちに許しを乞うた。
 騒ぎを聞きつけて庫裡から出てきた寺の和尚は、このようすを見て河童をふびんに思い、人々に命乞いをしたり、弟子にしてやろうと衣を河童の体にかけてやった。
 そして、「今後はぜったいに人や馬に危害を加えてはいけないよ」というと、河童は今までの自分の行いを悔い、地面 にひれ伏して泣いた。
 これを見た人々は河童をかわいそうに思い、川のほとりまで連れて行って川にはなしてやると、河童は泣きながら水の中に帰っていった。

 その翌朝、命を助けてもらったお礼のつもりか、和尚の寝ているまくらもとに、鮒が2匹置いてあった。
 また、この事件があってから、柳瀬川で人や馬が行方不明になることがなくなった。
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宝幢寺の河童

宝幢寺に設置された、フナをもつ河童の像(中野大門会設置)

 日本人と河童

 このような河童の伝説は日本のいたるところに存在し、河童は日本人の誰もが知っている。サンタクロースと同じように「小学生の頃までは本当にいると思っていた」という人も知っている。なかでも特に岩手県遠野市にまつわる河童が有名だが、はたして遠野の河童が有名になったのも前述の柳田国男の『遠野物語』によるところが大きい。
 やはり『遠野物語』に触発されて河童を研究し、河童村の村長にもなった大野芳氏はその著書『河童よ、きみは誰なのだ』の中で河童の由来を深く探っている。
 驚くのは、河童に会ったという人を取材したり、河童の子どもを産んだという逸話を紹介したり、河童は単なる想像上の生き物ではなく、その存在は日本人の根幹にある何かと関連していることを示唆してショッキングでさえある。

 河童の伝説は日本全国にあるが、呼び方も様々ある。それは、エンコ、カーカンバ、ガタロー、カワウソ、カワコゾー、カワソ、カワッパ、スイジン、カッパと非常に多い。カッパを意味すると思われる「河伯」は養老4年(720)成立の『日本書紀』に登場するという。そして「河童」という文字の初出は室町時代の『下学集』(1584年成立)であり、カッパという読み方が定着したのは近世になってかららしいので、思ったより新しい。
 河童の姿というと、頭に皿があり、背中には亀のような甲羅がある。そして手足に水かき、口が少しとんがり、緑色の体、というのが私のイメージだ。
 だが、『河童よ、〜』によると、むかし目撃した(!)人によると「身長はおよそ60cmぐらいで、耳は見えず、黒豆のような目が正面を向いて二つ並んでいる。手をだらりと前に垂らして立ち上がったとき、白っぽい腹部の毛が見えた。胸のあたりに赤みをおびた毛が生えていて、首からショ−ルをかけたようにきわだっていた」とのこと。遠野の河童は赤いのである。
 河童が、いま私たちがイメージするような形として定着したのもかなり新しいことのようである。

 志木で活躍する河童たち

 さて、さきほどの志木の河童だが、宝幢寺周辺の檀家で組織されている「中野大門会」では、宝幢寺の河童伝説を永久に残そうと、河童の石像を造り境内に安置している。その河童はいかにも愛らしい。また、市内のあちこちには彫刻家・内田栄信氏による個性豊かな河童たちが、志木駅前をはじめ、柳瀬川の中、保育園や学校の中など16箇所に設置されている。また、いろは商店街では河童のカッピーをキャラクターとして様々なイベントを展開している。当会と(財)埼玉県生態系保護協会で推進する「志木まるごと博物館 河童のつづら」でも、柳瀬川の河童が名誉館長である。
 どうも志木にいた河童たちは、いたずら好きだが、愛らしく、恩義を忘れず、まちのにぎわいにも貢献しているようだ。川がもっともっときれいになり、河童の目撃情報が寄せられる日が待ち遠しい。

内田作の河童像 1836年の河童 北斎の河童

旧村山快哉堂裏の河童(内田栄信さん作)

享和元年水戸藩東浜で捕まったとされる河童
(ウィキペディアより)

葛飾北斎の描く河童


【参考文献】
神山健吉ほか『しきふるさと史話』志木市教育委員会 1994
大野芳『河童よ、きみは誰なのだ 河童村村長のフィールドノート』中央公論新社 2000


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