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舟運の記憶エリアのお宝

 
新河岸川舟運

神山 健吉
(2006年9月1日 志木市文化財保護審議会会長・元志木いろは市民大学学長)

↑日露戦争中、穀物の輸送で忙しかった志木河岸(明治37年)
『ふるさと写真集』1991 志木市

 新河岸川舟運の恩恵を 最大限に受けた志木

 江戸時代後半から大正期にかけての志木は、商業の町として今日では想像もできないほどに繁栄を極めた。その最大の要因は、江戸と川越方面 との物資交流用の運河として整備された新河岸川沿いの河岸場を擁していたからであることは申すまでもない。
 新河岸川の舟運は、寛永15年(1638)正月の川越大火により焼失した東照宮と喜多院を再建するための資材を江戸から運ぶのに最も効率的な手段として着目されてから本格的に始まった。川越に物資を運ぶための便を図って、当時としては川越に最も近い場所に河岸場を新設したことから、新河岸の地名、更には新河岸川の名も誕生したのだ。
 新河岸川は、大正9年の河川改修が行われるまでは、現在の朝霞・和光両市の境界辺りで荒川と合流していたが、新河岸からこの合流地点までに合計20ほどあった河岸場の中で、後背地域の広さと積み降ろしの貨物の量 の点で群を抜いていたのは、上・下の新河岸と引又河岸(明治7年以降は志木河岸)だった。

 川越からは米・材木‥、江戸から肥料・塩‥

 新河岸川では、川越方面からは米穀類、材木、薪炭、ソーメン、ゴザ等、江戸からは肥料、塩、太物、小間物、雑貨、綿糸、石材等が主に運ばれた。
  引又河岸で荷揚げされた貨物の種類は沿岸の他の河岸場とさほど違いはなかったが、江戸方面 にこの河岸場から運ばれたものは、近隣からの米穀類・小麦粉、青梅の薪炭、所沢の壁土、所沢・村山・八王子の織物、甲府の葡萄・生糸、幕末以降は所沢・三芳方面 からのさつま芋が特に目立った商品だった。
  甲府から大菩薩峠を経由して商品が送られてきたことは、引又河岸の取引範囲が当時いかに広大であったかを示すものだ。このほか、特筆すべきは、熱海から樽詰めにされて送られてきた温泉が引又河岸を経由して町内や所沢方面 の分限者宅に届けられ消費されたことだ。
  新河岸川では、このように、長い間、貨物の運搬が中心だったが、天保年間(1830〜40)からは乗客も運ぶようになった。

 志木の回漕問屋

 ところで、河岸場で貨物の積み降ろしをするには専門の業者が必要だった。これが回漕問屋で、引又河岸では、江戸初期以来、井下田・三上(明治13年からは高須)の2軒の問屋が営業していた。
  明治10年代前半に自由民権運動の旗頭として活躍した三上七十郎、東上線の誘致に大きく貢献した井下田慶十郎はいずれも回漕問屋の出身で、その先見性は時代の流れを敏感にキャッチし得る職種への従事によって培われたのだろう。
 新河岸川を去来する船には、飛び切り・早船・並船の3種類があった。並船は荷物が満杯になるまであちこちの河岸場に寄って荷物をかき集めたので、物凄く日数がかかったし、積載する貨物は重量 があって、カサばり、廉価なものだったが、定期船の早船・飛び切りでは、カサばらずに、軽量 ・高価なものになっていく。引又から浅草の花川戸まで早船で15時間、飛び切りで13時間を要した。なお、乗客を乗せたのは早船に限られていた。

 舟運から鉄道へ

 新河岸川の舟運は、明治・大正にかけ各地に鉄道が開通して、貨物の運送が鉄道へと転換していくようになったこと、大正9年からの河川改修による水路の直線化が水位 を下げてしまったことにより、水運の続行が難しくなり、遂に昭和6年に埼玉 県から通船停止令が出て300年に及ぶ新河岸川の舟運にピリオドが打たれてしまった。


↑志木河岸へと向かう高瀬舟(大正初期)
『ふるさと写真集』1991 志木市


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