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舟運の記憶エリアのお宝

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新河岸川の改修工事

天田 眞
(河童のつづら館長 07/6/1)

昭和5年の堤防

↑桜並木が続く昭和5年の堤防
(写真:天田眞 以下同)

 荒川の瀬替え

 熊谷から下流の荒川が現在のような流路になったのは、1629〜34(寛永6〜11)年に行われた瀬替え(流路の付け替え)以後のことです。それまでの荒川は熊谷から鴻巣・岩槻・越谷方面 へと現在の元荒川を流れていましたが、この川を熊谷南東の久下で締め切り、入間川支流の和田吉野川につなぎました。
  瀬替えの目的は、埼玉県東部の洪水を緩和し新田開発を進める事や、江戸の洪水の緩和等、諸説いわれています。 瀬替えにより、本来入間川の川筋だった宗岡に秩父方面からの大量の水が流れるようになり、それまで以上に洪水が起き易くなりました。

 舟運に利用された新河岸川

 新河岸川は、川越南部の大仙波湧水を源流とし、伊佐沼からの九十川や、武蔵野台地を流れる数々の川の流れを集め、多くの蛇行を繰り返しながら、朝霞の下内間木で荒川に合流していました。1639(寛永16)年に川越城主となった松平信綱は、江戸と川越(新河岸)の間に舟運を興し、志木では柳瀬川との合流点に引又河岸が開設され繁栄しました。
 新河岸川は勾配が非常に緩く、元々蛇行が多かったのに加え、舟運のために蛇行を増やしたとも言われ「九十九曲がり」と呼ばれていました。こうした条件は舟の運航に適していましたが、一方では洪水の原因でもありました。

 宗岡村を水害から守ってきた惣囲堤

 かつての志木地区では集落は台地上にあり、川沿いの低地は河岸場を除いて建物はありませんでしたが、荒川と新河岸川とに挟まれた宗岡村は、全面 的な低地でありながら古くから人が住んできました。
 宗岡村では荒川と新河岸川に沿った堤防の他に、上流の南畑村からの洪水を防ぐ堤防と下流の内間木村の荒川合流点からの逆流を防ぐ堤防を築くことにより、村全体を囲む惣囲堤とし、水害から村を守ってきました。

 明治43年の大水害

 荒川筋では毎年のように水害に遭っていましたが、1910(明治43)年の関東全域を襲った被害は桁外れで、水位 は宗岡の惣囲堤を2mも越したと言われ、志木の台地から浦和の台地まで幅6Hにわたる荒川低地は全て水没しました。それまでも度々洪水対策の改修が求められていましたが、この水害を契機に改修工事が始まりました。

 荒川の改修

 下流の工事は北区岩渕から東京湾まで21kmの荒川放水路(現在の荒川)を開削するもので、1911(明治44)年から始まりました。それより上流では、蛇行した流路の直線化、高水敷の設置、堤防の拡大補強や新設、横提(水流を弱めるために河道に向かって直角に築いた堤防)の築造等が行なわれ1947(昭和22)年までかかりました。

 新河岸川の改修

 新河岸川の改修は1922(大正11)年から1930(昭和5)年に行われ、その主目的は水害対策ですが、平常時における舟運の便も図られました。
 全改修区間は荒川放水路起点の岩淵水門(北区志茂4丁目)から入間郡南古谷村大字牛子(現川越市牛子)に至る延長38.40kmに及びました。
 この内の下流部では下内間木の荒川との合流点(朝霞・和光・戸田の境界点/幸魂大橋上流300m)から11.13kmの新川を開削して岩淵で隅田川に繋ぎ、荒川放水路開削とあわせ、新河岸川と荒川とは分離し東京湾まで2本の川となりました。
 下内間木から牛子までの上流部は、蛇行の直線化、低水路の設置、両岸への堤防の築造等が行われました。当時は宗岡の惣囲堤と南畑の一部以外には堤防は無く、宗岡の惣囲堤が村を守るように取り囲み、川は広い堤外地を自由に蛇行していたのに対し、新たに造られた堤防は直線化された河道ぎりぎりに築かれました。堤防の高さは被害が大きくなる区域を高くし(本堤)、そうでない区域は低くして(小堤)います。
 改修後の新河岸川はその延長16.91kmとなり、旧川27.27kmに対し10.36km短縮され、約3分の2の長さになりました。
 直線化により水位が下がり、志木より上流では舟の運行に支障が出るため、いろは橋のすぐ下流に堰を設け、脇に船を通 すための水門である宗岡閘門を築造しましたが、既に鉄道輸送の時代になっており、改修工事完了の翌年に舟運は終止符を打ちました。宗岡閘門は1979年に解体されましたが、いろは橋下流の川の中に未だにコンクリートの残骸が散乱しています。

 総合治水時代の新河岸川の再改修

 改修が終わっても水害がなくなったわけでは無く、特に戦後の都市化の進行と共に再び改修が必要になってきました。20年ほど前より再度の改修が行われていて、川幅拡幅のための堤防の移動やかさ上げにより河川断面 の増大が図られています。
 この再度の改修により、昭和5年までに造られた沿川の堤防・橋梁・樋管等の河川構築物は殆ど造り替えられましたが、いろは橋下流の宗岡側(左岸)には、このときの堤防が唯一残っており、現在の堤防、江戸・明治期の惣囲堤と合わせて3代の堤防が並行し、治水手法の変遷を目で見ることができます。


宗岡閘門のレリーフ 砂川樋管

↑いろは橋欄干に付く宗岡閘門のレリーフ

↑樋管や橋梁等の構造物で唯一現存する 砂川堀合流点の砂川樋管
(富士見市)


【参考文献】
『新河岸川文化4号』小畑包美 1980年 (埼玉県発行の新河岸川改修工事報告書の復刻)
『水害と志木』志木市教育委員会 1988年


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