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野火止用水と志木

今野 美香
(2007年3月1日 志木市教育委員会生涯学習課)

市場通り

↑大正後期の市場通りを流れる野火止用水
(『ふるさと写真集』志木市より)

 野火止用水の開削

 昭和40年まで、志木市本町1〜2丁目付近を通る市場通りの中央には、野火止用水が流れていました。
 野火止用水は、川越藩主で幕府の老中でもあった松平伊豆守信綱が野火止新田の開発を目的として開削した用水で、その普請を高い測量技術を持つ家臣安松金右衛門に命じ、承応4年(1655)に完成させました。この用水は、とり入れ口の多摩郡小川村(現 東京都小平市)から末端の新座郡引又村(現 志木市本町周辺)まで全長約20kmあまりの用水で、玉川上水の分水33カ所のうち、最古、最大、最長の用水であり、さらに川越藩という私領への分水としては唯一のものでした。
 野火止用水は、以来300年以上の永きにわたり灌漑用水や飲料等の生活用水として利用され、流域の人々に潤いを与え続けてきました。

 おいしかった水と美人

  野火止用水は、とりわけ東武東上線以西の地域では長い間利用され、明治以降も飲み水として使われていましたが、水道の水よりおいしかったといわれています。
 本流や支流のわきには、各所に段差がつけられ、飲み水から風呂水、洗顔、炊事や洗濯、さらには産湯にまでと多目的に使われていたようです。
 また、用水の水で顔を洗うと、肌につやが出たそうで、肌のきれいな美人が用水の流域には多かったという話も伝わっています。

 志木市域での野火止用水の様子をご自宅の前に用水が流れていた高橋利一さん(83歳)にお伺いしました。
 高橋さんによると、市場通りを流れていた野火止用水は、昭和14〜15年くらいまでとても水量が多く、子どもがおぼれるくらいの深さがあり、その水を洗濯や風呂水などに利用されていたそうです。しかし、井戸の少なかった新座市西堀地区周辺などと違って、飲み水には井戸水を使っていたそうです。
 また、大雨が降ると水が白く濁り、その時には、水を溜めておいて上澄みを利用したことや、分水された野火止用水の水が中野下住宅あたりにあった田んぼの水としても利用されていたことなどを語ってくれました。

 野火止用水の水質管理

 用水は、江戸時代から流路の9カ村で作った組合で管理してきました。また、平林寺(新座市)も用水での魚とりや用便、洗濯の禁止、古草履やごみの投げ捨ての禁止などの禁止事項をかいた高札を掲げて用水の水質管理に努めてきました。
 志木市域でも、戦前までは、志木地区の人々は、新座市西堀の分水口まで、宗岡地区の人々は、志木駅のそばにあった踏切あたりまで、それぞれ年に2回堀ざらいに出かけたそうです。このような流域の人々の努力があったため、分水口から実に約20km末端に位置する志木地区の人々でさえ生活用水として利用することができたのでした。

 用水から水道へ

 昭和24年、衛生状態を視察するために埼玉県内を巡回していた占領軍埼玉県軍政部衛生課長グラディス・W・ローラ女史が北足立郡大和田町(現 新座市)で、野火止用水を視察した際、人々が用水の上流で炊事や洗濯をし、下流で飲み水に使っている様子を目撃したことがきっかけとなり、直ちに埼玉県衛生部による野火止用水の保菌検査が実施されたところ、飲料水には不適合という結果が出て、これが埼玉県や大和田町の上水道敷設への契機となりました。
 まず、昭和24年に、大和田町の菅沢、大和田西分150戸を対象とする簡易水道が誕生しました。このとき、約1,000人の人たちが初めて水道の水を口にしました。
 野火止用水の終焉をもたらしたのは、実はこのローラ女史の「不潔宣言」だけではありませんでした。
 昭和26年に用水を飲み水としていた野火止の東地区などから軽症者まで含めると50人以上もの赤痢患者が発生したことが一番の原因でした。
 この時既に完成していた簡易水道の水を飲用していた地域からは、1人も患者が出なかったこともあり、簡易水道の普及がこの後一層進んでいきました。
 志木市域において、初めて上水道工事(簡易水道より給水対象人数が多い。※簡易水道の給水対象人数は、3〜5,000人以内)が完成したのは、昭和34年のことでした。新座や朝霞(昭和28年完成)よりたち遅れた原因は、新座や朝霞に比べて水事情が比較的恵まれていたことや当時志木小学校の鉄筋コンクリート改築などがあり、町の財政が逼迫していたこともあったようです。
 志木市で上水道の普及率がようやく100%近くに達したのは、昭和50年のことでした。

 野火止用水の終焉と復活

 小平市や東村山市などでは宅地化が進み、大量の家庭排水が流れ込んだため野火止用水の汚染が進み、下水堀化していきました。
 用水の汚染と上水道の普及の中、ついに東京都は、昭和48年野火止用水への分水を止めたのでした。
 ここに、318年間にわたり流れ続け、流域住民に絶大なる恩恵をもたらし続けてきた野火止用水は、その名と堀割のみを残して終止符を打ったのでした。
 しかし、その後まもなく野火止用水の流れをとり戻そうという声があがり、多くの人々の努力により玉川上水の自然水ではなく多摩川上流処理場(昭島市)の下水の二次処理水ではありますが、昭和59年8月についに野火止用水に流れがかえってきたのでした。


【参考文献】
『野火止用水 歴史と清流復活の賛歌』斎藤利夫、大谷希幸著 平成2年4月10日 有峰書店新社
『しきふるさと史話』神山健吉、井上國夫、高橋長次著 平成6年11月30日 志木市教育委員会
『志木市史 通史編下 近代・現代』 平成元年3月31日 志木市
『志木市郷土誌』 昭和53年3月1日 志木市


野火止用水跡 野火止用水跡

↑志木市と朝霞市の市境付近の野火止用水跡


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