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舟運の記憶エリアのお宝

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志木のシンボル「いろは樋」


毛利 将範
(志木まるごと博物館 河童のつづら 担当)2009年9月


江戸名所図絵
↑ 『江戸名所図絵十三』に描かれたいろは樋

 

  「いろは遊学館」「いろは橋」「いろは商店街」と、志木市には「いろは」を冠した施設や場所がいくつもあります。それは、江戸時代に「いろは樋」と呼ばれる樋が架設されたことによります。
 いろは樋は、野火止用水を引又宿(現志木市本町)から宗岡へ引くために新河岸川の上に架けられていました。いろは樋から引かれた水は宗岡地区の田畑を潤し人々の生活を豊かにしました。このことが人々の心に深く刻まれ、いろは樋は現代でも地域のシンボルとして生き続けているのです。

ジオラマ展示
いろは樋の全景ジオラマ展示(市場坂上交差点のポケット公園)

昇り竜
大桝と登り竜の復元模型(市場坂上交差点のポケット公園)

仕組み図
復元模型の仕組み図(市場坂上交差点のポケット公園)

 白井武左衛門により架設

 旗本岡部忠直が宗岡村を支配するころ、その家臣白井武左衛門は、宗岡村が用水に乏しいのを憂い、新河岸川に流れ落ちていた野火止用水の末流を利用したいと考えました。
 野火止用水は、当時の川越藩主松平伊豆守信綱によって明暦元年(1655)に開削され、それは多摩川から引水した玉川上水の用水を今の小平市で分水し、新座市の野火止地区を通り、志木市の市場通り中央を流れ、流域の灌漑・飲料用水として利用されたあと、今の栄橋あたりで当時の新河岸川に流れ落ちていました。
 松平信綱の許しを得、寛文2年(1662)、白井氏は野火止用水を宗岡側に通すための巨大な木の樋を新河岸川の上に架けました。


天保15年
いろは樋絵図(天保15年(1844)作成 内田太郎家所蔵)
 いろは樋の各箇所の寸法や働き、樋のつくられた経緯などが随所に記されており、往時のいろは樋を知る上で大変貴重な史料。
『志木市史(近世資料編3)』より複写。


 当時、新河岸川は舟運が始まっていたので、舟の運航を妨げないように樋は川面から約4.5メートルの高さに架けられました。幅約61cm、長さ約7.2mの木の樋を48個つなぎ合わせて引又宿から対岸の宗岡村まで渡してあり、その樋の数がいろは歌48文字と同じ数であったことから「いろは樋」と名付けられました。
 このことは、文化7〜文政11年(1810〜28)に編纂された『新編武蔵風土記稿』の「入間郡之十 河越領 宗岡村」条に「万治二年玉川上水の分水を新座郡引股町より掛樋をもて新河岸川の上を通じ、村内及び此辺処々の水田に沃(そそ)げり。其掛樋の継合せし数四十八あれば、伊呂波樋とは呼べりと。」と記されています。
 掛樋(かけひ、かけとい)は筧とも表記することもあり、橋のように渡した水路のことです。それは総延長126間(約260メートル)もあったことから「百間樋」とも呼ばれていました。

 掛樋に水が昇り流れる

 野火止用水からの水は市場坂上に設けた木製の「小桝」に貯められ、地形の落差により地中の埋樋を流れ落ち、引又河岸近くの「大桝」へと流れ込みます。大桝を満たしたその水は大桝の上部から落下し、その勢いで埋樋から「登り竜」と呼ばれる掛樋を昇りあがって新河岸川の上を渡り、対岸の宗岡地区にまで送られていました(『新編武蔵風土記稿』より)。
 いろは樋のおかげで、宗岡地区の生産力は飛躍的に増大しました。いろは樋を架設した白井武左衛門への村人たちの感謝の念は篤く、文化10年(1813)に白井氏供養塔を、明治41年(1908)には白井氏頌徳碑を建立し、天王様の祭礼の日には白井氏の旗を立てて村中を巡っていたそうです。

 木樋(掛樋)から鉄管(伏越)へ

 しかし、新河岸川はたびたび氾濫し、いろは樋もしばしば流出の被害を被っています。修復にかかる費用の負担も大きく、また樋に使用する巨材の調達も次第にむずかしくなってきました。明治31年から36年(1898〜1903)にかけて木樋を鉄管に代える工事をおこない、舟運の妨げにならないように260mあまりの鉄管を川底に埋設しました。この方式は「伏越(ふせこし)工法」といい、潜管に空気管を設けたり内径を変えるなど、効率よく送水するためのさまざまな工夫がされていました。

大桝
取り入れ口側の大桝
明治31年4月竣工と刻まれている

鉄管
明治36年に埋設された鉄管と流れ出口側の大桝

 大桝もレンガ積みとし、本町二丁目(栄橋近くの柳瀬川の右岸堤防脇)の取り入れ口側と中宗岡一丁目(いろは橋近くの新河岸川の左岸堤防脇のポケット公園)の流れ出口側とに、当時作られたレンガ製の大桝が史跡として保存されています。
 300年以上にわたって宗岡の地に多大な恩恵を与えたいろは樋も、昭和40年(1965)に志木市本町の野火止用水が下水路として暗渠に改造されたことにより、その役目を終えました。


【参考文献】
※いろは樋の架設年や長さに関する数字は資料により解釈が異なる場合があります。
『志木市郷土誌』志木市 昭和53年(1978)
『志木風土記(第一集)』志木市 昭和55年(1980)
『志木市史(近世資料編3)』志木市 昭和62年(1987)

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