舟運の記憶エリアのお宝 |
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志木のシンボル「いろは樋」 |
毛利 将範
「いろは遊学館」「いろは橋」「いろは商店街」と、志木市には「いろは」を冠した施設や場所がいくつもあります。それは、江戸時代に「いろは樋」と呼ばれる樋が架設されたことによります。 白井武左衛門により架設 旗本岡部忠直が宗岡村を支配するころ、その家臣白井武左衛門は、宗岡村が用水に乏しいのを憂い、新河岸川に流れ落ちていた野火止用水の末流を利用したいと考えました。
当時、新河岸川は舟運が始まっていたので、舟の運航を妨げないように樋は川面から約4.5メートルの高さに架けられました。幅約61cm、長さ約7.2mの木の樋を48個つなぎ合わせて引又宿から対岸の宗岡村まで渡してあり、その樋の数がいろは歌48文字と同じ数であったことから「いろは樋」と名付けられました。 掛樋に水が昇り流れる 野火止用水からの水は市場坂上に設けた木製の「小桝」に貯められ、地形の落差により地中の埋樋を流れ落ち、引又河岸近くの「大桝」へと流れ込みます。大桝を満たしたその水は大桝の上部から落下し、その勢いで埋樋から「登り竜」と呼ばれる掛樋を昇りあがって新河岸川の上を渡り、対岸の宗岡地区にまで送られていました(『新編武蔵風土記稿』より)。 木樋(掛樋)から鉄管(伏越)へ しかし、新河岸川はたびたび氾濫し、いろは樋もしばしば流出の被害を被っています。修復にかかる費用の負担も大きく、また樋に使用する巨材の調達も次第にむずかしくなってきました。明治31年から36年(1898〜1903)にかけて木樋を鉄管に代える工事をおこない、舟運の妨げにならないように260mあまりの鉄管を川底に埋設しました。この方式は「伏越(ふせこし)工法」といい、潜管に空気管を設けたり内径を変えるなど、効率よく送水するためのさまざまな工夫がされていました。 大桝もレンガ積みとし、本町二丁目(栄橋近くの柳瀬川の右岸堤防脇)の取り入れ口側と中宗岡一丁目(いろは橋近くの新河岸川の左岸堤防脇のポケット公園)の流れ出口側とに、当時作られたレンガ製の大桝が史跡として保存されています。300年以上にわたって宗岡の地に多大な恩恵を与えたいろは樋も、昭和40年(1965)に志木市本町の野火止用水が下水路として暗渠に改造されたことにより、その役目を終えました。 【参考文献】 ※いろは樋の架設年や長さに関する数字は資料により解釈が異なる場合があります。 『志木市郷土誌』志木市 昭和53年(1978) 『志木風土記(第一集)』志木市 昭和55年(1980) 『志木市史(近世資料編3)』志木市 昭和62年(1987) ↑トップへ
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