毛利 将範
(志木まるごと博物館 河童のつづら 担当)2009年12月
↑広い水田の中の横堤を、荒川の堤防から眺める。
高さは4mほどで、建築当初の記録では長さ510.55m。
羽根倉橋と秋ヶ瀬橋の間の荒川堤外(荒川堤防の川側)、水田やグランドが広がる広い河川敷のほぼ中央に、荒川に向かって伸びる堤防があります。これが「横堤」です。
堤防はふつう川に並行して築かれるのですが、横堤は川の流れに対してほぼ直角に突き出しています。日本では荒川だけにみられる堤防で、上流からの洪水流を受け止め下流の被害を軽減することと、流速を減速させ河川敷や耕作地を保護することなどを目的とした堤防と言われています。
近代河川改修で誕生した横堤
「堤防はふつう川に並行して築かれる」と述べましたが、実はそれは明治になってからの近代改修以降のことで、それ以前は、洪水から守らなければならない村などを囲むように堤防を築くのが治水の基本的な考え方でした。宗岡地区には江戸時代初期に造られた村全体を囲む輪中堤(この地域では「惣囲堤」と呼んでいる)が今でも残っています。
明治40、43年と続いた大洪水を契機に、明治政府は「臨時治水調査会」を設け、抜本的な治水計画にのり出します。
岩淵水門(隅田川と荒川の分岐点)から下流では、大正2年(1913)から昭和5年(1930)にかけて新たに約21kmの荒川放水路(現在の荒川)を開削しました。
岩淵水門からの上流部では、蛇行していた川を直線化するとともに、それまでの人の住むところを堤防で囲むのとは逆に川全体を堤防の中に閉じ込める連続堤を大正9年(1920)から昭和29年(1954)にかけて築造しました。この時の改修工事で、川の中に農地を残したままの広い川幅で堤防が造られ、また、川幅の広い部分に横堤が造られ、ほぼ現在の荒川の姿となりました。日本一広い川幅(最大で2.5km)と横堤は治水上で荒川の大きな特徴となっています。
洪水を受け止めて流れを緩やかにする、横堤の仕組み図
『荒川読本』荒川上流河川事務所より
荒川上流改修工事平面図
大正7年から始まる荒川上流の改修工事区域は、赤羽鉄橋から大里郡武川村(川本町)
に至る62.3km、入間川筋の比企郡伊草村(川島町)地先の落合橋から本流合流部に至る
5.9km、新河岸川筋の北足立郡新倉村(和光市)から岩淵水門に至る11.1kmだった。
『荒川上流改修80年の歩み』より
昭和初期に造られた宗岡の横堤
横堤は、北吉見から戸田市の彩湖南端部の間で、左岸(さいたま市側)に14、右岸(志木市側)に12、計26ヵ所に築かれました。
志木市内には、先ほど述べた荒川堤外の中央にある「宗岡第二号横堤」の他に、羽根倉橋の志木・富士見市側に現存する「南畑横堤」と、秋ヶ瀬橋の志木側にかつてあった「宗岡第一号横堤」の3ヵ所に築かれました。「宗岡第二号横堤」は昭和4年(1929)に着工し、昭和6年(1931)竣工、他の2ヵ所も同時期につくられ、26ヵ所のうち宗岡堤外にある3ヵ所が最初に完成しています。
横堤の機能
松浦茂樹氏(東洋大学教授)の「大遊水地帯の成立と暮らしの知恵」によると、明治10年代の荒川中流域には大規模な雑木林が点在しており、その下流側に耕地や集落がみえ、水害の防備林だったろうことが分かる。防備林は洪水の流速を緩和し、大きな土砂や流木を止め、肥料になる細かな土砂だけをゆっくりと流す。大堤外地に暮らす人々の、洪水と折り合いをつけて暮らすための偉大な知恵であるこの防備林が、横堤の原型になったと考えている、と述べられています。
川を直線化し連続堤を築いたことで、それまで荒川中流域全体が果たしていた遊水機能が低下しました。それを補うために、防備林を原型とする横堤が川に突き出すように築かれ、洪水流を広い河川敷に貯留する仕組みができあがりました。資産が集中する首都東京などの下流域を洪水流から守る新しい遊水機能、それが荒川の「広い河川敷」と「横堤」により確保されたということができます。
「宗岡第二号横堤」の先端部
鉄塔は、不法投棄監視用のカメラです
【参考文献】
安斎達雄「荒川独特の治水施設−横堤を考える−」『郷土志木』第34号(志木市郷土史研究会 2005)
『荒川上流改修80年の歩み 澪(みお)』(建設省荒川上流工事事務所 2000)
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