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水防施設「水塚(みづか)」
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「土盛りの土は、畑の土の30cmほど下のクロマサという黒い硬い土を掘ってモッコに入れて担ぎ上げたと聞いた」「この高さに積むには並大抵のことではなかったはず。先祖が苦労して築いたものだから壊せない」
2004年夏、宗岡地区(上宗岡・中宗岡・下宗岡)の「水塚」を調査した際に水塚がある農家の方から伺った話です。
水塚とは、屋敷内の一部に宅地よりも1mほど高く土盛りをして、その上に倉などの建物を設けたもので、水害時に避難し、しばらく生活できるようになっている、いわば水防施設です。
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宗岡地区は荒川と新河岸川に挟まれた低地であるために、以前はしばしば洪水にみまわれてきました。その防備策として江戸時代初期頃から水塚が築かれはじめたと考えられており、江戸末期から明治、大正時代のものが今でも55基(04年8月)現存しています。
志木以外では、荒川流域の川島町、富士見市南畑、朝霞市内間木など、また、木曽川下流や利根川中流などでも見ることができます。
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洪水への備え |
土盛りの上に建てられた倉には、洪水に備えて1階に米、味噌、醤油などを蓄蔵し、中2階では水が引くまで避難生活を送れるようになっていました。
また、浸水時に備えて長さ3間(5.4m)ほどの舟を備えていた家も多く、今でも、物置や納屋の天井や庇につるしてあるお宅がありました(写
真左)。木を切ったり、天井を破って脱出するために、のこぎりやなたを常備したり、排水と防火用水としての役目ももっていた「構え堀」が屋敷の北側に残る家も一部に見られました。
さらに、この地域には、江戸時代に造られた宗岡地区全体を囲む堤防(輪中堤、総囲堤などと言う)が今でもほぼ昔の原型を保って残されています(佃堤など)。
このように「荒ぶる川」の恐ろしい洪水に対する様々な備えをすることによって、宗岡の人々は川の氾濫が運ぶ肥えた土を利用して農作物の収穫をし、普段の豊かで楽しい暮らしを守り、「母なる川」の恵みを最大限活かしながら暮らしてきたと言えます。この川と共に暮らすための一連のシステムを象徴するのが水塚であると考えることができます。
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忘れられつつある水塚 |
このような役目を持つ水塚が今忘れ去られようとしています。
水塚は普段、単に「クラ」「土蔵」「物置」、または用途に応じて「味噌部屋」「文庫倉」などと呼ばれています。そのためか、水塚のある家の住人であっても「水塚」という言葉が通
じないこともありました。近代治水の成果で水害の心配がほとんど無くなった現在では、水塚の存在意義も用途も、建てられた時代に比べて変化して、水塚という言葉がすでに死語になりつつあるようです。
志木に、しかも宗岡地区に長く住んでいる人でも意外と知らない方が多い「水塚」、それは、水と人との激しい共存の知恵を結集した、志木市の貴重な文化財です。
(文・図・写真:毛利将範 200512.1)
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参考文献: 『水害と志木』1986 志木市
「荒川下流域水塚群の研究─人と水との共生の文化を考える─」2004
毛利
調査協力: 安齋達雄氏(郷土史家)
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