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↑当時の浸水の範囲を示す図
国土交通省荒川上流河川事務所ホームページより
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川のまち志木? |
「志木のイメージとして『川のまち志木』がふさわしいと思う人、いらっしゃいますか?」
先日、志木市の歴史と自然に興味がある30名ばかりの人が集まる公開講座で質問する機会がありました。確かに志木市域には、荒川流域に属する荒川・新河岸川・柳瀬川の3本の川が流れています。また、平成11年(1999)に策定された志木市環境基本計画でも、その目指す環境像を「人とひとが織りなす、川のまち志木」と謳っています。はたして志木は「川のまち」なのでしょうか。
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母なる川・荒ぶる川 |
古来より人間の暮らしに大きく関わり恵みを与えてきたのが川です。沖積平野に位置する志木市・宗岡地区にも、古くから人が住み、水田耕作を中心に集落を形成してきました。水を得やすく、そして定期的に発生する洪水流は上流から耕作に必要な肥えた土を供給し、耕作しやすく、舟運の利用が容易であり、人の住み得る条件が整っていたのです。
しかし「母なる川」は一方で、たびたび氾濫を繰り返えし、人々の暮らしを脅かす「荒ぶる川」でもありました。鎌倉時代前期、京都にいた鴨長明が『発心集』に「武州入間河沈水の事」として建暦2年(1212)の入間川での洪水の恐ろしさをリアルに記述しています。この地域でも古くから人々は川の恵みを受け集落を形成するとともに、その脅威に対峙して川とのつきあい方の文化を築いてきたことが窺えます。
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平野部全域が水没した明治43年の大水害 |
明治以降では、5大洪水の一つとされ、荒川筋でも特に大きな被害がでた明治43年(1910)の大洪水が有名です。それは、それまでの溢れることを前提にした治水から、連続堤防を築き洪水流を川に閉じこめ、川を直線化していち早く海に流す治水に大きく方針転換をするきっかけとなる水害でもありました。
この洪水は、利根川の洪水と合わせて埼玉県内の平野部全域を浸水させ、東京下町にも甚大な被害をもたらしました。その記録は『明治四十三年埼玉県水害誌』、『宗岡村郷土誌』(1913宗岡小学校)や、古老からの聞き取りをおこなった『水害と志木』(1986志木市)などに詳しく記述されています。
それらによると、埼玉県内での被害は、堤防決壊314ヶ所、死傷者401人、住宅の全半壊・破損・流失18,147戸、非住宅10,547戸、農産物の損害は現在の資産価値で1,000億円にものぼりました。県西部や北部に人的被害が多く、床上浸水被害が県南や東部低地に多かったのが特徴とされています。
当時の宗岡村の被害は、全村230町歩米作無収穫、150町歩の秋作全部腐敗。家屋の流出33戸、倒壊、住宅48棟、納屋46棟。その他貯蔵穀類、玄米1000俵(450石)、大麦2000俵(1000石)などという記録が『宗岡村郷土誌』にみえます。
8月2日より細雨あり、連日で9日に至り漸次烈しくなり、10日にはついに暴風雨となり…、12日に川越西北部で破堤があり、さらに南畑びん沼の破堤にいたり、みるみる増水しついには床上5尺(約1.5m)を越える。人々は「タナギ」に上がり屋上によじのぼり避難したことが記されています。また、屋根を破って救出されたり、流される屋根の上から助けを呼ぶ人もあったといわれます。
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当時の最高水位を8.195m |
降雨は166日間にもおよびついには志木市本町1丁目(市場坂下:標高約10m)より浦和市(現さいたま市)別所方面まで一面湖水と化し、宗岡全土が水没し、その水位は天井まで達しました。
水塚など、明治43年当時の建物が今でも残されており、それらの壁などに当時の水の痕跡が残されています。『水害と志木』では、それらを詳細に調べて当時の洪水の水位を割り出しています。
それによると、水の痕跡が残されていたのは4軒で、その洪水位の標高は、川や堤防からの距離により一定でなく、7.995mから9.185mとなっていますが、最終的には民家の障子に残されていた水の痕跡をもとに、当時の最高水位を8.195mであったとしています。
この記録は、現在宗岡小学校に隣接する志木市郷土資料館の敷地にモニュメントとして表示してあります(写真)。
宗岡の水田の平均標高は4mから5m。宅地はそれより約1m高く、水塚はさらに約1.5m土盛りされています。つまり、水塚の土盛りの頂までの標高は6.5mから7.5mで、それより高い洪水が押し寄せたことになります。また、当時の荒川・新河岸川の堤防は、田面より2m位の高さといわれていますので、洪水は堤防の上を1mから2m以上越していたことになります。
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それまでの治水思想を変えた水害 |
かつてない大洪水に、明治政府は「臨時治水調査会」を設け、抜本的な治水計画にのり出しました。
これにより荒川や新河岸川では、川を直線化し洪水流をいち早く海に流す改修工事が始まりました。それは今までの溢れることを前提にした治水から大きく方針を転換するものです。
明治時代に西欧から導入された土木技術は、大がかりな河川改修を可能としていました。加えてこのころ、流域の生産活動、人口密度の増加が促進され、特にかつての氾濫原である平野部へ資産が集中し、それらの土地・財産を守る必要性から、一時的にせよ水を溢れさせることは次第に許されなくなってきました。
このように、人々の治水に対する考え方が変化してきたのですが、それに決定的な影響を与えた事件のひとつが、明治43年(1910)の大水害であったといえます。
荒川下流部では、岩淵水門から下流に、隅田川(当時の荒川)と分派する約21kmの放水路が開削されました。上流部の洪水流の勢いを和らげるための「横堤」や広大な河川敷は、この時の改修工事によって生まれたものです。
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(再び)川のまち志木? |
ところで、冒頭の質問への答えですが、「川のまち志木」のイメージがふさわしいと答えた人は、30名中2名の方でした。
川から恵みを受け、川の脅威に対峙して様々な文化を育んできた地域の来し方を思うと少し寂しい気もします。先人のたゆまない努力により、今日では破堤による浸水はほとんどなくなりました。川の恵みも恐ろしさも日常では忘れて、それが現代人の生活の現実であるともいえます。
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