|HOME|河童のつづら辞典|お便り| | |
河童のつづらのいきさつ |
|
|
写真1 水塚がある農家 写真2 ワ−クショップ 写真3 ツバメの観察会 写真4 川まつり 写真5 水谷田んぼ |
「川のまち志木」へ
|
||||||
古代より文明は川を中心に発展してきたといわれている。川がつくった地形や水の循環に従って人々は生活圏と生活様式を決めてきた。ところが近代の陸上交通や土木技術の発達は、地形や川が果たす役割に関係なくまちづくりを行うことを可能にした。都市に人口が集中し、大量の水を消費し、汚水は川へ流れ込む。私たちの生活習慣や治水の考え方の変化が川と人を分離し、日常生活で水の循環を実感することが難しくなる。そうして川は忘れられ、魅力を失ってきた。川が瀕死に近づいてくると初めて、川の役割やその景観と自然環境の大切さに人々は気づきはじめた。そして今、再び人々の目は川に向きはじめている。 埼玉県志木市でも、高度経済成長期の1960年代後半、市内を流れる川には洗剤の泡が花吹雪のように舞い、川に捨てられたごみを伝って、因幡の白ウサギよろしく猫が川を渡る光景があったそうである*1)。かつては川と共に栄えた町が、川に背を向けてしまった。この光景に愕然とした市民と行政が行動を起こし川をきれいにする運動をスタートした。1972年のことだった。その活動は現在も継続されており、1999年には市民と行政とのパートナーシップにより「人とひとが織りなす、川のまち志木」と題した「志木市環境基本計画」が策定され、川を中心に据えたまちづくりへの合意がなされるまでになった。 以下で、志木市の水と緑の概況、そして「志木市環境基本計画」の策定にも深く関わった「エコシティ志木」が、特に川に関するどのような活動を行っているのかを紹介し、今後川とどのようにつきあっていこうと考えているのかを述べる。
人口約67,000人、面積9.06Iの志木市は、荒川、新河岸川、柳瀬川の3本の川が流れ、荒川低地の宗岡地区と武蔵野台地の志木地区という2つの特徴ある地形により形成されている(図)。また、現在は暗渠となっているが、かつては野火止用水が新河岸川と柳瀬川の合流点まで流れ、さらに「いろは樋」により新河岸川を超えて宗岡地区にまで達していた。 低地の宗岡地区は、洪水が運ぶ肥えた土のおかげで良好な農地であった反面、水害との闘いの絶えない地でもあった。江戸時代に村全体を堤防で囲む惣囲提を完成させて、さらに屋敷の一部を1m程高くした水塚(みづか)(写真1)を築きその上に避難用の蔵を建てて水害に備えていた。 市の中央を流れる新河岸川は、江戸時代から大正時代にかけて江戸と川越を結ぶ舟運で栄えた。柳瀬川と新河岸川の合流点に河岸場が設けられ、遠く青梅、八王子方面との陸路もつなぐ舟運の中継点として繁栄した。新河岸川がかつて「九十九曲がり」と呼ばれたように、荒川や柳瀬川も当時は著しく蛇行していたが、頻繁な水害に悩まされ続け、特に明治43年の大水害をきっかけにあいついで改修され、直線化された。 鉄道の開通により舟運は役目を終え、さらに高度成長期になると人口増加と開発が進み、柳瀬川周辺の低地の水田や台地上の樹林地はほとんど宅地となり、東京のベッドタウンと化した。 このような都市化の波は現在も続いているが、志木の原風景ともいえる「武蔵野台地と荒川低地が接するまち」の面影は今も散見できる。台地と低地の境の河岸段丘に部分的に残る斜面林。点在する農家や寺社。川の直線化で取り残された旧河道や惣囲提の一部。水塚も1988年の報告*2)では63基が記録されており、現在もそれに近い数が残っている。そして、新河岸川や柳瀬川には、多分大昔から来ていたであろう渡り鳥が今でも多数飛来し、河川敷は市民の憩いの場にもなっている。
市の環境大学講座で知り合った市民が中心となり、1995年に「エコシティ志木」は発足した。これをきっかけに志木市での市民の環境へのかかわりと市民参加が新しいステップに進んだと自負している。 エコシティ志木は、活動の柱としてフィールドワークとワ−クショップを繰り返し行った*3)。 フィールドワークでは、たとえば落ち葉の堆肥づくりからサツマイモづくりまでの1年かけた地元の農家のプログラムに参加したり、市内を流れる川を何日かに分けて源流まで歩いたりした。このようなフィールドワークは、自分が住んでいる地域をより深く理解し愛着をもつきっかけになった。それは地元の宝物を発見する作業でもあった。 そしてフィールドワークで得た情報をもとに、まちの環境を良くし次世代につなげるにはどうしたらよいのかを自由に話しあうワークショップ(写真2)を行った。ここでは特にだれでも平等に意見が言えることを重視した。一人ひとりの「思い」を共有し、解決のためには何ができるかを話しあった。 これらの活動を集大成し、1998年に総合的な環境まちづくりのための市民の行動計画である「市民がつくる志木市の環境プラン」を発表した。そしてさらに前述の、全員公募の市民委員による「志木市環境基本計画」の策定へとつながった。
「環境プラン」を発表したことで、市民は自信を持ち、行政との連携も進んだ。行政や埼玉県生態系保護協会志木支部などの地元や流域の市民団体とも連携しながら、地域の調査や観察会、保全活動など、様々なプロジェクトを立ち上げた。 特に柳瀬川では様々な調査や観察会(写真3)を行っている。1997年から99年までの2年半の野鳥調査*4)では、チョウゲンボウなど62種の野鳥が確認された。柳瀬川は冬の渡り鳥が多いのが特徴で、ヒドリガモなどのカモ類8種を含め20種が記録されている。99年の野草調査*5)では220種に及ぶ野草が記録され、タコノアシやミゾコウジュなどの絶滅危惧種も発見された。2000年7月から始めた魚類調査では、アユ、ボラ、マハゼなど21種の魚が記録されている。平凡に思える都市の川も、意外に豊かな自然を養っていることが分かる。 このような調査資料からガイドブックや啓発資料を作成して、地域の環境を知り、親しむ活動に活用している。「ツバメの観察会」「鳴く虫の声を聞く会」など季節ごとに行う柳瀬川を中心にした観察会では、地域の川の自然の豊かさに気づき、さらに主体的に関われるきっかけづくりを行っている。 次世代を担う子どもたちの自然体験をサポートする活動にも力点を置いている。たとえば市民の出前授業により1998年からスタートした「プールのヤゴ救出作戦」*6)は大好評で、今では志木市内の小学校のほとんどが実施するようになってきた。また最近は、川に関する活動でも学校への出前授業が増えてきている。
このような様々な活動から、循環型の地域社会へとつなげたいと願ってエコシティ志木は活動を行っている。しかし、単独の活動からはそうした総合的なイメージをなかなか伝えにくい。そこで、これらを総合的にとらえ、かつ分かりやすい活動にするために、地域をまるごと博物館とする「エコミュージアム」構想を現在計画中である。 特に市内を流れる川と、川がつくりあげた環境、川と共生してきた歴史を中心に据えた「川のまち志木・まるごと博物館」をめざし、地域で遊び、地域から学び、地域を守り、次の世代に伝える活動を一体に行いたいと考えている。 具体的には、今までの活動やフィールドを有機的に結びつけてプログラムを展開する。今年から始めた「川まつり」(写真4)で川への関心を喚起し、観察会等で多くの生き物がいることを知り身近な川の再発見をする、魚調べや舟下りで川と遊び親しむ、さらに学校と協力して教材として活用し次の世代に伝える、このように位置づければ今までの活動が鎖のようにつながってくる。 そしてさらに、環境の保全、健全な水循環への取り組みによってフィールドをつなげていく。例えば、プールのヤゴ救出作戦にも次のステップが用意されている。そもそもトンボがプールに卵を産むのは、近くにその環境が無くなったからなのだ。実は「プールのヤゴ救出作戦」は「生き物がたくさんすめる場所をどんどん学校につくっていく作戦」の第一歩でもあるのだ。各学校に生き物が棲む空間である「ビオトープ」が順次できていけば、環境学習で活用できるだけでなく都市の中の生き物をつなぐネットワークができあがる。 都市部を流れる柳瀬川が“意外に豊かな自然を養っている”のは、その周辺との自然のネットワークがあるからだ。特に柳瀬川最下流部にとって、左岸にある79haの水谷田んぼ(富士見市)(写真5)の存在は大きい。キジやイタチなど多様な生き物が生息しており、遊水の機能もある。川環境と一体となったエコミュージアムという位置づけすることによって、課題はまだまだ多いが、この景観と農を守る活動へと展開していく可能性があると思っている。
相続や水質の問題など課題は多い。そして志木のように都心に近い住宅地でのエコミュージアムの事例はまだ知らない。しかし、志木での課題は全国どこでもが抱えている課題であり、だからこそ循環型の地域をめざす一歩として、アクションをおこすことの意義があると考えている。 川をシンボルに、川と共に築いた文化遺産や身近の貴重な自然を、魅力ある資源として現代の生活に活かしながら、次の世代に引き継ぎたい。 〈参考文献〉 毛利将範『水循環・貯留と浸透』No.43 2001.12 社団法人雨水貯留浸透技術協会発行へのレポートから |
|||||||
Copyright (C) Since 2002 Ecocity Shiki All rights reserved.